橘逸勢(たちばなのはやなり)

延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができぬと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、大同元年(806年)の帰国後はそれらの第一人者となった。

承和7年(840年)に但馬権守に任ぜられる。のち、老いと病により出仕せず、一時期は静かに暮らしていた。

承和9年(842年)の嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、伴健岑と共に捕縛された。両者は杖で何度も打たれる拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。しかし、7月23日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、春宮坊が兵によって包囲された。結局、大納言・藤原愛発や中納言・藤原吉野、参議・文室秋津は免官され、恒貞親王は皇太子を廃された。逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で[3]伊豆国へ、健岑は隠岐国(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)への流罪が決まった(承和の変)。

逸勢は伊豆への護送途中、遠江国板築(浜松市三ヶ日本坂)で病没した。60余歳という。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。

死後、逸勢は罪を許され、嘉祥3年(850年)太皇太后・橘嘉智子の没後まもなく正五位下の位階を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛されている。仁寿3年(853年)には従四位下が贈位された。仁安元年(1166年)には橘以政によって伝記『橘逸勢伝』が著された。

また、無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったとも当時の人々に考えられ、貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂・早良親王・伊予親王などと共に祀られた。そして、逸勢は現在も上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。

 

 

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伊都内親王願文

『伊都内親王願文』(いとないしんのうがんもん)は、桓武天皇の第8皇女・伊都内親王が生母・藤原平子の遺言により、天長10年9月21日(833年11月6日)、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進した際の願文である。楮紙に行書で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。書風は王羲之風であるが、その中に唐人の新しい気風が含まれており、飛動変化の妙を尽くし、気象博大と評されてもいる。御物。

 
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