光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺および国分寺の設立を夫の聖武天皇に進言したと伝えられるほか、両親の藤原不比等と県犬養橘三千代を供養するために一切経を発願した(五月一日経)。また救貧施設の「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
書
書をよくし、奈良時代の能書家として聖武天皇とともに有名であり、作品には『楽毅論』(がっきろん)や『杜家立成雑書要略』(とかりっせいざっしょようりゃく)がある。ともに正倉院に蔵されている。
楽毅論
王羲之の『楽毅論』を臨書した名品。本文は43行、奥の軸付に黄麻紙一帳を添えて「天平十六年十月三日(744年11月11日)藤三娘」と、年紀と署名があり、光明皇后が44歳の時の書だと分かる。かつては署名部分に別紙を継いでおり、本文とやや書風が異なると見なされた事などから皇后の自筆でないという説もあったが、本文や『杜家立成雑書要略』との詳細な比較などから、現在は皇后の真筆を疑う意見は皆無と言って良い。料紙は二帳半に継ぎ、縦25cm、長さ126.6cm。右画像では分かりづらいが、白麻紙に縦に0.6cmごとに簾のような漉き目が並ぶ「縦簾紙」と呼ばれる精良な紙を用いており、漉き目は紙質が薄いため、現在はそこに折り目が付いている。明代に翻刻された『楽毅論』と比べると脱字が数ヶ所あり、反対に2行目行末の「為劣是以叙而」が多い。しかし、この6文字がないと文が続かない。
「筆力は雄健であるが、文字構成の軽視が目立つ。紙には縦線があるので気をつければ文字列を整えるのは容易なはずだが、表題の「楽毅論」からいきなり右にずれ、その後も真っ直ぐ書くのを二の次とし、行間も不揃いである。文字の間隔や大きさも不均一で、行末で文字が小さく扁平になってしまう誤りを何度も繰り返す。文字単体を見ても、毛筆の状態が良くなかったのか、筆先が2つに割れたりかすれている箇所がしばしば見られ、均衡を欠いた結字も散見する。しかし、流した文字が一切なく、日本の書道史上殆ど類例のない強く深い起筆、強い送筆、そして強く深い終筆のもつ表現力が、構成の杜撰さを覆い隠し、光明皇后の強い決意と決断を感じさせる魅力的な作品に仕上がっている。」書家の石川九楊は『楽毅論』を以上のように読み解き、光明皇后の意志だけによって成り立つ意志の集合体、「意志の化成」と評している。