
同弘仁元年(810年)に、蔵人所を設置し、巨勢野足と藤原冬嗣を蔵人頭に任命。弘仁3年(812年)に右大臣となった藤原園人を中心とする官僚に政務を任せ、詩宴を精力的に開催するなど、文治的事業に専念する。弘仁9年(818年)には、平安京の十二門を唐風の名に改め、宮中の儀式も唐制に改めた(『日本後紀』)。
弘仁6年(815年)4月、近江国志賀郡への行幸中に梵釈寺で輿を停めた際、唐から帰国した僧である永忠が自ら点てた茶を飲んだとされる(『日本後紀』)。弘仁9年(818年)、弘仁格を発布。この頃、農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、財政難は深刻であった。その対策として、墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われた。
弘仁14年(823年)には、空海に東寺を賜い、その前年には、最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認めている。
弘仁14年(823年)、大伴親王(淳和天皇)に譲位し太上天皇となり、実子の正良親王(後の仁明天皇)を皇太子とした。この時、律令体制維持のための財政緊縮を主張してきた藤原氏の一員であり、嵯峨天皇の腹心であった右大臣藤原冬嗣は、凶作が続く中で、平城上皇の他さらにもう一人上皇を持つのは財政負担が大きいとして、反対した(『日本紀略』)。それでも譲位を実行したのは、天皇の長子が原則として皇位継承していくという習慣に逆らって、桓武天皇の次男であった自分の子供に皇位継承させるためだった可能性が指摘されている。
譲位後は冷然院に住んだ。淳和天皇による国政への関与の例は少ないが、弘仁15年(824年)の平城上皇の崩御の翌月、薬子の変に連坐した流人を召喚する処置をとったのは、嵯峨上皇によるものだった(『日本紀略』)。
天長10年(833年)、淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位する。この時、淳和上皇らの反対を押し切って[要出典]自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を仁明天皇の皇太子とした。
同年10月、在位中に設営された洛外の離宮・嵯峨院(のちの大覚寺)に御所を新造し(『続日本後紀』)、太皇太后嘉智子と共に移り住んだ。その庭には中国の洞庭湖を模した人工池である大沢池が造られている。
実子である仁明天皇の国政へは、より頻繁に関与し、自らの遊猟に奉仕した者に叙位を行ったり、小野篁を流罪にする(『続日本紀略』)などしている。
承和9年(842年)、崩御。宝算57。その後間もなく承和の変が起こっている。
皇子皇女が多数おり[注釈 1]、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。
漢詩、書をよくし、空海、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。書作品としては延暦寺蔵の「光定戒牒」(国宝)が知られる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている。
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