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文 徴明(ぶん ちょうめい、男性、成化6年11月6日(1470年11月28日) - 嘉靖38年2月20日(1559年3月28日))は、中国明代中期に活躍した文人である。詩書画に巧みで三絶と称され、とりわけ画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、沈周・唐寅・仇英とともに明代四大家に加えられた。
蘇州府長洲県の人。幼名を壁または璧、字を徴明としたが名前のようになってしまったので徴仲と改めた。衡山、衡山居士、停雲生と号し、文衡山と呼ばれることも多く、また官名から文待詔とも称された。
文徴明は徹底した努力を積み重ねることによって才能を得た晩成型の人であった。書においても若い頃は下手だったようでこれに強く発奮して刻意臨学しついに筆意を得ることが出来たという。独創性や強い個性を見いだすことは出来ないが、古人の伝統を集約し謹厳にして精緻であり、ときに豪快な書風といえる。はじめは蘇軾や黄庭堅・米芾を臨模したが後に晋唐を手本とし、小楷は王羲之、隷書は鍾繇に師法した。高齢になってもその小楷はますます謹厳精緻さを増した。またその行書と草書は集字聖教序に学び極めて流麗であった。晩年になって黄庭堅に影響をされ豪快な大字を書いた。自ら法帖を編集し、子の文彭・文嘉らの協力を得て『停雲館帖』を刊行している。祝允明・王寵とともに呉中の三大家とされ、明初から停滞気味の書壇に新風を吹き込み、当時「天下の法書はみな呉中に帰す」といわしめた。しかし彼の死後、蘇州の書は文徴明一色となってしまい、その後の停滞を招くことになる。
江戸時代中頃、文徴明の書は法帖などを通じて日本に紹介され、明末の董其昌とともに当時の日本の書家に大きな影響を及ぼしている。特に細井広沢や趙陶斎などは文徴明に影響され唐様の書を確立している。
文徴明は高潔温順な人柄で、ともすれば堅物とさえ伝えられる。友人の唐寅は彼を誘って石湖に舟遊びに出かけたが、途中文徴明を驚かそうと隠していた芸妓が現れると彼は溜まらず逃げ出そうとし、ついに舟を戻したという。また文人として矜持を貫き、王侯貴族(宗藩)や宦官、それらに阿って利益を貪るもの(中貴)、外国人には決して書画を売らなかった。一方、貧しい者が彼の贋作を作成して売ってもその者が救済されるならば構わないと容認していたという。唐寅は「傍にいるだけで心が洗われる」と述懐している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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