松本 秀夫
趣味の書道ネットサークル
福島県いわき市中央台鹿島
◎ 二十四節気72候(基本課題)
◎ イメージ書(初心者向け・課題自由)
◎ 臨書 学習 (目習い& 専用用紙)
地位や名誉いっさいありません。私にあるのは、楽しく書くことだけです。
( 同じ時代を生きているあなたへ )
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令和4年 7月予定
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図書室
脳若返り1『雨ニモ負ケズ』
脳若返り2『やまなし』
脳若返り3『平家物語』
脳若返り4『論語』
脳若返り5『漢詩』
脳若返り6『三国志』
脳若返り7『 人生カルタ』
脳若返り8『葛飾北斎』
脳若返り9『歌川広重』
脳若返り10『歌川広重2』
◎ 基本課題 二十四節気72候
二十四節気72候 2月
二十四節気72候 3月
二十四節気72候 4月
二十四節気72候 5月
二十四節気72候 6月
二十四節気72候 7月
イメージ書・色紙
【一文字】 教秀 色紙講座
【開運】 教秀 色紙講座
【百人一首】教秀 色紙講座
【季節】お部屋・お店
【お祝い】教秀 色紙講座
イメージ書 (初心者向け)
イメージ書 その2
奥の細道 色紙 一
No.2江戸 千住
No.3栃木 日光1
No.4栃木 日光2 裏見の滝
No.5栃木 黒羽
No.6栃木 雲巌寺
No.7栃木 那須1
No.8栃木 那須2 遊行柳
No.9福島 須賀川1
No.10 福島 須賀川2 隠者可伸
No.11福島1 信夫里
No.12福島2 飯坂 医王寺
No.13宮城1 名取 笠嶋
No.14 宮城2 岩沼
No.15宮城3 宮城野
No.16岩手 平泉1 高館
No.17 岩手 平泉2 光堂
No.18 山形 最上 尿前の関
No. 19 山形 尾花沢1
No.20 山形 尾花沢2 清風宅
No.21 山形 尾花沢3 紅花問屋
No. 22 山形 立石寺
No.23山形 最上川
No.24山形 羽黒山1
奥の細道 色紙 二
No.26山形 月山
No.27山形 湯殿山
No. 28 山形 酒田 1
No. 29 山形 酒田 2
No.30 秋田 象潟 1
No.31 秋田 象潟 2
No.32 新潟 越後路
No.33新潟 出雲崎
No.34 新潟 市振
No.35 富山 那古の浦
No.36 石川 金沢1
No.37 石川 金沢2
No.38 石川 金沢3
No.39 石川 小松1
No.40 石川 小松2
No.41石川 那谷寺
No.42石川 山中温泉
No.43福井 全昌寺1
No.44 福井 全昌寺2
No.45 福井 天竜寺
No.46 福井 気比神宮
No.47福井 敦賀
No.48 福井 種の浜1
No.49 福井 種の浜2
No.50岐阜 大垣
【奥の細道 色紙】
◎ 臨書 学習
【初級向け】いろはマスター
【臨書】千字文 入門
【臨書】 四体千字文 小野鵞堂
【臨書】かな 基本 小野 鵞堂
【臨書】小倉百人一首 小野鵞堂
【臨書】小倉 百人一首 阪 正臣
【臨書】九成宮醴泉銘 欧陽詢
【臨書】雁塔聖教序 褚 遂良
【臨書】集字聖教序 王羲之
【臨書】興福寺断碑 王羲之
【臨書】十七帖 王羲之
【臨書】快雪時晴帖・他 王羲之
【臨書】蘭亭序 王羲之
【臨書】書 譜 孫過庭
【臨書】千字文 文徴明
【臨書】千字文 趙子昂
【臨書】十七条の憲法 聖徳太子
【臨書】楽毅論 光明皇后
【臨書】嵯峨天皇 (三筆)
【臨書】空海 (三筆)
【臨書】空海 益田池碑銘
【臨書】橘逸勢 (三筆)
【臨書】行成 (三蹟)
【臨書】小野道風 (三蹟)
【臨書】和漢朗詠集 藤原公任
【臨書】後拾遺和歌集序
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文 徴明(ぶん ちょうめい、男性、成化6年11月6日(1470年11月28日) - 嘉靖38年2月20日(1559年3月28日))は、中国明代中期に活躍した文人である。詩書画に巧みで三絶と称され、とりわけ画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、沈周・唐寅・仇英とともに明代四大家に加えられた。
蘇州府長洲県の人。幼名を壁または璧、字を徴明としたが名前のようになってしまったので徴仲と改めた。衡山、衡山居士、停雲生と号し、文衡山と呼ばれることも多く、また官名から文待詔とも称された。
文徴明は徹底した努力を積み重ねることによって才能を得た晩成型の人であった。書においても若い頃は下手だったようでこれに強く発奮して刻意臨学しついに筆意を得ることが出来たという。独創性や強い個性を見いだすことは出来ないが、古人の伝統を集約し謹厳にして精緻であり、ときに豪快な書風といえる。はじめは蘇軾や黄庭堅・米芾を臨模したが後に晋唐を手本とし、小楷は王羲之、隷書は鍾繇に師法した。高齢になってもその小楷はますます謹厳精緻さを増した。
またその行書と草書は集字聖教序に学び極めて流麗であった。
晩年になって黄庭堅に影響をされ豪快な大字を書いた。自ら法帖を編集し、子の文彭・文嘉らの協力を得て『停雲館帖』を刊行している。祝允明・王寵とともに呉中の三大家とされ、明初から停滞気味の書壇に新風を吹き込み、当時「天下の法書はみな呉中に帰す」といわしめた。しかし彼の死後、蘇州の書は文徴明一色となってしまい、その後の停滞を招くことになる。
江戸時代中頃、文徴明の書は法帖などを通じて日本に紹介され、明末の董其昌とともに当時の日本の書家に大きな影響を及ぼしている。特に細井広沢や趙陶斎などは文徴明に影響され唐様の書を確立している。
文徴明は高潔温順な人柄で、ともすれば堅物とさえ伝えられる。友人の唐寅は彼を誘って石湖に舟遊びに出かけたが、途中文徴明を驚かそうと隠していた芸妓が現れると彼は溜まらず逃げ出そうとし、ついに舟を戻したという。また文人として矜持を貫き、王侯貴族(宗藩)や宦官、それらに阿って利益を貪るもの(中貴)、外国人には決して書画を売らなかった。一方、貧しい者が彼の贋作を作成して売ってもその者が救済されるならば構わないと容認していたという。唐寅は「傍にいるだけで心が洗われる」と述懐している。
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